先日、約20年ぶりにSF映画の名作、「2001年宇宙の旅」をDVDで見ました。 さすがに久しぶりなので、細部のストーリーは覚えていませんでしたが、今回改めて見たところ、その強烈な印象とメッセージ性については、かつて受けたのと同じくらいの衝撃がありました。 そして、この十数年ほどの間、私が脳科学者として生きてきたという経験を経たからなのか、この映画について、今回新たに気がついたこと、考えさせられたこと、がありました。
この映画はアポロ宇宙船が月に行く前年の1968年の作品で、まだ人類が地球の外から地球の姿を見た事が無かった時代に作られました。 映画公開直後にアポロ宇宙船が月の周りを回って帰って来た時には、この映画で写されていた地球の姿があまりにも実物に近かったということが話題になったくらい、科学考証がきちんとなされている映画でした。 (細かい誤りはありますけれども。) 映画の中では、要所要所でリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトストラかく語りき」が流れて、荘厳な雰囲気を盛り上げます。
冒頭では、数百万年前にヒトが出現した頃の映像が出て来ます。道具を使うこともできなかった猿人ですが、そこに謎の大きな黒い板(モノリスと呼ばれるらしいです)が現れる。 その謎の板に触れると、猿人は「進化」し、道具を使う事を覚える。武器を使えるようになったことによって、他の猿人との水場の取り合いに勝利する姿が描かれます。 それから数百万年後。20世紀最後になったころ、人類は宇宙へと進出していました。そして、月の地底に謎の板、モノリスを発見する。 そのモノリスは、人類が十分に進化して発見されるその日まで、数百万年もの間、姿を隠していたかのようです。 発見された後、そのモノリスが木星方向へ強い信号を発したため、人類は2001年に木星へ探査船を出すことになります。 2001年、主人公達は探査船による木星への旅に出ます。途中で、高度な人工知能を備えたコンピューターの反乱などに会いながらも木星へと辿り着いた主人公は、木星でモノリスと出会う。 そして、そこで主人公は、最終的に人類の進化した何か(映画では胎児として描かれる)へと変貌を遂げる、という内容です。モノリスには、どうやら人類の進化を触媒する働きがあるようです。 この映画のテーマ音楽が「ツァラトストラ」ですから、この映画ではニーチェの同名の書に影響を受けた内容の主題を扱っているのかもしれません。 「神は死んだ」という有名な書き出しで始まる同書では、ヒトは神には頼らずに「超人」を目指して進化しなくてはならない、そして進化の最終的な形態は胎児である、と言っています。 この映画では、人知の及ばないくらい高度な文明がモノリスを介して、ヒトの進化を促していると暗示しています。 それを宇宙人と呼ぶか呼ばないかは、我々の定義によるのでしょうが、「彼ら」は我々の理解を遥かに超えた存在です。 言い換えれば、「彼ら」の能力は、我々の脳の能力を遥かに超えていると言えます。ある意味では、ネズミがヒトの脳について、理解しようとしてもできないのと似ているかもしれません。 我々は、与えられた脳の能力の範囲内でしかモノを考えることができません。 ですから、恐らく「彼ら」にとってはモノリスというのは単なる黒い不思議な板ではなくて、それ以上の重要かつ様々な意味合いを持った存在なのでしょうが、 それを理解する能力を持たない我々には、単なる黒い不思議な板、にしか見えない、ということです。 この映画は、その意味を理解しようというのは不可能で、ただその「不可思議さ」「理解できないということ」を認識する・感じる、ことで、逆にその本質に迫れる類いの映画だと思います。 つまり、脳の能力を超えた存在を表現している映画なのだから、不可思議さ・超越した何か、を感じ取ればそれで十分だという訳です。 上に書いたニーチェだなんだというのは、この映画の一面を切り取っているにすぎません。本質は、我々の理解を超えたところにある、ということです。
いつか、これについても書こうと思うのですが、我々の論理学(というか正確には数学ですが)が造り上げたある公理系の中の定理で、「ゲーデルの不完全性定理」というのがあります。 これはある意味、我々の脳の限界を表しています。もしかしたら、この映画の中に出てくる「彼ら」ならば、この不完全性定理を乗り超える能力があるかもしれません。 さらには、我々自身の意識や知性がどのようにして我々の脳から生み出されるのかについても、簡単に理解してしまうかもしれません。 我々、ブレインサイエンティストが目指しているその最終目標は、皮肉にも我々には到達不可能で、「彼ら」には到達可能なのかもしれない。 この映画を久しぶりに見て、そんな感想を持ち、複雑な気持ちになりました。。。。
とはいえ、我々は自分たちよりも下等と考えている、ネズミやカエルに意識や心があるかどうかまだ知りません。 ですから、「彼ら」もそう簡単に我々のことを理解できるとは思えませんけれども。