「温度」、「時間」、そして「個性」

「温度」について考えてみよう。 我々は(1)「モノに触った時に熱い、冷たい」と感じ、(2)「お湯と冷水を混ぜるとぬるま湯になる」ことを経験している。 そしてこうした経験から、冷たいモノから熱いモノまでのなんらかの量として「温度」なる概念が生じた。 文明が生まれる前からこの概念はあったはずなので、科学的な定義は後付けでなされたことになる。 私は高校の物理で、「温度」が単位体積あたりの分子の運動量の総和から定義されると習った(最新の物理学ではもっと難しい定義がなされているようだ)。 たしかにモノの分子がたくさん手にぶつかれば熱い(痛い)と感じるだろうし、水の分子同士が衝突し合えばお湯はぬるく冷水は温かくなるだろう。 「温度」の概念は、「分子運動」で直感的に理解できる。 かように、我々が日常に持つ概念を科学的に定義しようとする場合、もとの概念から乖離しないことが望ましい。 また、温度は「分子の運動の総和」で理解するのであるから、「一つの分子」については「温度」を定義できない。 つまり、「温度」というのはマクロの概念であり、ミクロの視点ではその意味を失ってしまう。

 次に「時間」について考えてみよう。 これも日常でよく使われる概念だ。温度と違うところは、そこに方向性があることである。 我々は過去のことは覚えているが未来のことは覚えていない。 また、片付けた部屋は(その後、片付けなければ)未来に向けてどんどん散らかって行く。 かように「時間」については、記憶に基づいたり、エントロピーに基づいたり、と複数の定義が可能となりそうだが、ここではエントロピーについて考える。 50の青玉と50の赤玉が入った二つの小部屋の壁を取り除くと、時間の経過と共に二種類の球は混じり合うが、元には戻らない。 ここから「時間」の流れを定義できる。 しかし箱の中に青玉1つの世界を考えた時には、エントロピーは変化せず、過去や未来という時間を定義できない。 つまり、「温度」と同様に(エントロピーから考える)「時間」とはマクロの概念であり、やはりミクロ的視点ではその意味を失ってしまうようだ。

 我々は、日常の中で『個性』という言葉をよく使う。 『個性』と相同な単語は英語の”Individuality”のように各言語に存在するので、恐らく世界中の人々に『個性』なる概念が存在する。 実は心理学の世界では、パーソナリティの定義はあっても、『個性』についての明確な定義はないそうだ。 しかし『個性』について研究する以上は、『個性』なるものをある程度は定義したい。 そしてそれは「温度」や「時間」の定義のように、我々の日々の感覚を反映したものであることが望ましい。

 学校の成績が良いとそれは『個性』か?絵が上手いとそれは『個性』か?外向性、誠実性、協調性などはどうだろうか? それらは個人差で、『個性』の重要な要素かもしれない。 しかし我々が日常『個性』という言葉を使う時、そんな単純な意味では使っていない。 我々は生活の中で『個性』という言葉を、より抽象的な概念、より上位の「その人の《人となり》を端的に表象するもの」あるいはさらに「その背後にある行動原理も含めたもの」として使っている。 つまり、『個性』とは、「温度」や「時間」と同様にバラバラの要素にしたのではその意味を失ってしまう、マクロの概念であることがわかる。 また、一見バラバラに見える個々の要素(生真面目、内向的、絵が上手など)は、実はランダムに表出するのではなく、その人なり「クセ」をもって連関して出てくる。 その「クセ」のようなもの、それぞれの要素の表出の背後にあるなんらかの上位の行動原理(脳内原理と言っても良い)を我々が感じとった時に、我々はその人の『個性』を見出すのであろう。 この「個々人の行動原理と要素の発露」のことを、私は『個性』と呼びたい。

 脳はブラックボックスであり、様々な内的・外的インプットを受容すると、それに応じて人それぞれの多様なアウトプットを出す。 またこのブラックボックスは気まぐれで、いつも同じアウトプットをするとは限らない。 暑い日に、アイスクームが食べたくなるかと思えば、冷やし中華を食べたくなることもある。 また、人によってはアツアツのラーメンを欲することもあるだろう。 しかしこのブラックボックスは単にランダムに出力するわけではなく、それぞれの個々人でその人なりの出力の「クセ」がある。 つまり、その脳の「クセ」について研究することが、『個性』を理解する本質的なアプローチであろう。 しかし脳は多層的に理解しないとその実体には迫れない。 そのため、遺伝子・ゲノムやエピゲノム、経験や環境、などの違いが、シナプス、細胞、神経回路、行動の多様性を生み出すしくみを理解しなくてはならない。 私は、こうした多層的なアプローチによって、個々人の「脳のクセ」あるいは「行動原理と要素の発露」の理解が進み、『個性』の科学的実態が明らかになっていく、と考えている。 また、脳の集合体ともいえる共同体や社会にも何らかの「クセ」が生まれるのではないか?国民性や県民性、校風、宗教などをそれで説明できる可能性は?ヒトの進化とともに『個性』も進化するのか? こうした問いも次世代の『個性』研究の対象となってくるだろう。『個性』とはかくも面白い研究対象である。